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み締める健脚

1人どこかへ消えたイサラを追い、リカードはガラル地方へと足を踏み入れる。
 

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 ~夜 ユゴートの研究所 1階~

「ミクソン先生、イサラの兄さん知らねぇ?」

 無機質な自動ドアを開け、薄暗い店内に顔を覗かせたリカードが尋ねる。

 ここはユゴラボの一階、ミクソンの営むバー【HOT'SPOT《ホットスポット》】だ。

 ムーディな照明の中、ほんのりと香しいアロマの焚かれたバーカウンターから声が返ってくる。

「イサラさんデスか? えぇ、存じていますデス。彼は擬人化したインテレオンであり……」

「そういうジョークはいいんだよ。どこにいるか知らねぇかって話だ」

 客が来たというのに顔も向けず、一心にグラスを磨くミクソンに呆れながら尋ね直す。

 いや、彼には顔も心もないのだが。

「いえ、見てないデスね。何か彼に用でもあるのデスか?」

「戦闘シミュレーションの相手をしてもらう約束だったのよ。時間になってもこねぇから探してるんだが……」

「それは珍しいデスね。彼がそんな疲れそうなことを請け負うなんて」

 ミクソンが意外そうに小首をかしげた。

 イサラといえば、面倒事を避け、力仕事から極力逃げる男だ。荒事は不得手、などと口にするがその実なかなかの運動神経と俊敏さを誇る、まさしくインテレオンらしいポケモンだが、確かにバトルの付き合いなど望んで請け負うような男ではない。

「この前ちょっとした賭けで僕が勝ってさ、何が欲しいんですかと聞かれたもんだから、じゃあバトルの練習に付き合えって言ったのよ。そん時ゃ渋々承諾してくれたが……珍しいのはそこじゃねぇのさ」

「どこデス?」

「アイツが約束を破ったことさ」

 イサラという男は、守れる約束しか結ばない。

 平時の彼は頼みやお願い事を軽率に聞き入れず、適材適所だと言って他のメンバーに擦り付け、のらりくらりと立ち回る。それは自分の力量を把握しているからだ。取引、交渉、約束に関して、彼はなぜか人一倍気を遣うし、一度交わした以上は血を吐いてでも守るのだ。

 そんな彼が、誰にも何も言わず、約束の時間になっても来ず、ユゴラボの中に姿が見えない。

「こいつは、異常と言えるんじゃねぇか?」

「そうデスかね。そう言われればそうかもしれないデスね。リカードさんは彼のことをよくわかっているのデスね」

「冗談じゃない、何にもわからんよアイツのことなんざ。ラボの中で、誰よりもわからねぇ。ただ、癖なんだ」

「癖、デスか」

 拭いていたグラスを棚に戻したミクソンが、リカードの方へと向き直った。

「これでも長いことここにいるからな。メンバーの様子を観察する癖がついちまってるのよ。よくよく思い返せば、イサラの兄さん、今朝から姿が見えねぇなと」

「フム……彼がふらっといなくなるのは、今に始まったことではないような気もしますデスが」

「フィールドワークやら情報収集やらで姿を消すことはあるが、そん時ゃ前もって誰かに連絡してるんだよ。特にクロヤリの旦那には、トレーナーだからと必ず伝えるようにしてる」

「では、今回は主《あるじ》も知らないと?」

「そういうこった。旦那どころか、誰も姿を見てないと来た」

 手持ち無沙汰に頭を掻くリカード。ここに来るまでにある程度のメンバーと話してきたが、誰も所在を知らないという。

 顎に手を当てて少し俯いたミクソンが、数秒して切り出す。

 右手の人差し指を、自分の足元……真下を差すように向けて。

「では、一番怪しいところにはもう尋ねたのデスか?」

「あー……そういやまだだった」

 バーの下、地下一階には菜園場と庭園が広がっている。

 が、彼が差しているのはそのさらに下のことだろうとリカードは直感する。

「しゃあねぇ、出て来てくれるかわからんが、とりあえず尋ねてみるわ。邪魔したな」

 踵を返し、バーを後にするリカード。

 ひらひらと手を振るその背中に、声が投げられる。

「あぁ、ちょっと待ってくださいリカードさん」

 リカードが振り向くと、ミクソンが何やらカウンターの裏を漁っていた。

 そして、何かを取り出すとそれを放るように投げてきた。リカードはこれを慌ててキャッチする。

「おっと、なんだこりゃ」

「お守りデス」

 手のひらに収まるサイズのそれは、神社でもらえるようなお守り袋だった。首から下げられるような紐がついているが、その布製の袋には何も書いていない。

「アンタの手作りか?」

「いえ、貰い物デス。ミーには相性が悪いようなので、アナタが持っていてください」

「ふぅん。ま、ありがとな」

 そう言ってリカードはお守り袋を首から下げる。

 イサラの居場所を探しているだけなのに、なぜ渡されたのかはわからない。が、わざわざ渡すということは何かしら意味があるのだろうと勝手に考えておく。

「じゃあな、ミクソン先生。あ、ハイボール冷やしといてくれ」

「かしこまりましたデス。二本でよろしいデスか?」

「おう、その通りだ」

 慣れたやり取りをこなし、改めてバーを出るリカード。彼が向かうのは、地下二階の部屋だ。

 エレベーターを使い、普段は滅多に訪れることのないユゴラボの最下部へと降りる。

 扉が開くと同時に肌で感じるのは、奥から漂ってくる冷えた空気だ。実際に見たことはないが、テンガン山の空洞とつながっているらしく、そこから空気が入り込んでいるのだとか。

 また、非常に薄暗い。この階層に住んでいるのは一人だけであり、本人の意向で照明を落としているらしい。もっとも、節電の観点からすれば妥当だろう。あまり電気を使いすぎると、エコにうるさいフレミーが文句を言いに来るはずだ。

 変電室やボイラーといった設備には目もくれず、無機質でうすら寒い廊下を歩いていく。やがて足を止めた扉の前で、軽く咳払いしてから声をかける。

「ユゴートの姉さん、ちょっといいか?」

 声が小さく反響して廊下の奥まで伸びていく。

 この部屋の主にしてラボの管理者であるパラセクトの名を呼び、待つこと五秒。まるで時差でもあったかのように、遅れて返事がやってくる。

「その声はリカードだね? わざわざ来なくても内線で呼んでくれればいいものを」

「アンタが内線で出た試しがねぇからな。こうでもしねぇと大事な用だとわかんねぇべ」

「まぁワタシにとって大事な用でなければ、出る必要がないからねぇ?」

 そんなやり取りをしていると、内側からピッという電子音が鳴るとともに扉が開かれた。スライドした扉の向こう側には廊下と同じような薄闇が広がっており、その中心からローブを羽織った眼鏡がのそのそと顔を出してきた。

「今回の件に関してはアンタも関係してそうだと思ったからな。イサラの兄さん知らねぇか?」

「イサラくんかい? もちろん知っているとも。彼は擬人化したインテレオンであり」

「アンタさっきのやり取り見てやがったのか?」

「現在はガラル地方のワイルドエリアに単独で向かっている。ワタシの【門《ゲート》】を使ってね」

 淀みなく、止め処なく、さらっと言い切るユゴート。

 そんな気はしたわ、とリカードは短く切るように息を吐く。

「やっぱりアンタか。長距離を移動するには、ツクモ先生のウルトラホールか、アンタのその門ってやつを使うのが一番だからな」

 ユゴートの言う門という存在は、ウルトラビーストたちが使うウルトラホールに似て非なるもの……らしい。正確なことはリカードは知らないし、知りたいとも思わない。なんでパラセクトにそんな能力があるのか、なんて考え始めるとロクな目に合わない気がするからだ。とりあえず、便利なワープホールみたいなものだと思っておけばいい。

「アンタを頼った理由はわかったが、じゃあなんで一人でガラルに行ってるか知ってるかい? クロヤリの旦那にも黙っていなくなるなんざ、気になっちまってよ」

「詳しくは聞いていないよ。言われたのは一言だけさ。『あなたにとっても悪い話ではありませんよ』とのことでね。それならと乗ってやったのさ」

「なんだいそりゃ。内容については?」

「聞いてないよ。だってわざわざもったいぶって濁した内容を、彼がそう簡単に教えてくれると思うかい?」

「いいやまったく」

「でしょ?」

 謎の納得をしてしまい、肩をすくませるリカード。イサラという男は、そういう奴だった。

「興味本位であいつの要件を飲んだってワケね。となると、結局理由はわからずじまいか。面倒事じゃなけりゃいいんだが」

 正直なところ、リカードがここまでイサラのことを気にする必要はない。本人の意思で行動を隠しているようだし、事情があるのであれば無下に横槍を入れるのは悪い気もする。放っておいて帰ってくるのを待ってればいいだけなのだが。

「ナニか、嫌な予感がするといった顔だね?」

「心理学の専門家かよ。まぁ、そうさな。なんつーか、あいつ本人の心配というより、あいつが何をしようとしているのか、ってところが気になっちまってな」

「よくないねぇリカード。そういう嗅覚は鍛えないほうがいい。厄介ごとに首を突っ込んで巻き込まれる典型だ」

「やっぱり厄介ごとなんじゃねーか。なんか知ってるんだろアンタ」

「これはワタシとしたことが口が滑ったね? 今から眠らせるから聞かなかったことにしといてほしいな」

「お生憎様、目が覚めるのは早くてね。アンタが何かする前に起きちまうよ」

 ドードリオの特性のひとつ、"早起き"。これにはユゴートも降参である。

「やれやれ、わかった。知っていることを話そう。どうするかはキミに任せるよ」

 そう言って彼女は一回部屋に戻った後、一台のタブレットを持ってきた。その画面には、地図のようなものが記されている。

「これは?」

「ワイルドエリアの地図だね。キミは行ったことがないから知らないかもだが、ここにはダイマックスと呼ばれる巨大化現象を起こすポケモンたちが住んでいる」

「いやさすがにそれくらいは知ってるが……この一つだけついてる赤いバッテンはなんだ?」

「そこに、観測されたこともない巨大な巣穴が出現したようなんだ」

 ワイルドエリアのダイマックスポケモンは、人間が一人入れるくらいの穴から飛び出たポケモンが、巣穴に溜め込まれたダイマックスパワーにより巨大化したものだ。その巣穴自体が巨大化し、複雑な迷路のようになったものがカンムリ雪原にあるのだが、ワイルドエリアにあるという話は聞いたことがない。

「もしかしてイサラの兄さん、その調査に向かったとか?」

「かもしれないね。これが観測されたのは最近のことだし、以来ちょくちょく現地に行っていたみたいだからねぇ」

 ふぅむ、とリカードは顔をしかめる。これをトレーナーである彼に伝えるべきか、それとも。

「なぁ、ユゴートの姉さん。僕もそこに連れて行っちゃくれねぇか?」

「可能ではあると答えておこう。だが、行ったところでキミはどうするのかな?」

「なーに、イサラの兄さんに一言釘を刺してやろうと思ってよ。そんな調査、ポケモンがやることじゃねーだろってな」

 はにかみながらそう告げるリカードに、ユゴートは相変わらず顔色一つ変えず、眉一つ動かさない。

「まぁ、好きにするといいよ。共犯と思われても嫌だから、ワタシは今日は引きこもっておくことにするさ」

「そいつは助かる。イサラの兄さんにも事情があるのかもしれねぇから、このままクロヤリの旦那には黙っていくことにするぜ」

「そうかい。じゃあ入りなよ。そこの縦型の箱のような機械があるだろう? そこに入れば、イサラくんと同じ場所に出られる」

 そう言ってユゴートはリカードを部屋に招き入れる。

 リカードとしては、ユゴートの部屋には初めて入る。用がなければ会いに来ることもないし、ましてや部屋に入れてもらえたことなど一度もない。ゆえに多少の興味はあったが、入り口から入ったそこには彼女の示した機械と、モニターがいくつか並んでいるだけだった。どうやら彼女の部屋は多重構造になっているようで、奥にもう一枚別の扉が見える。そちらが寝室なのだろうか。

「ジロジロ見ても大したものはないよ。さぁ、早く入りたまえ」

「そういえば、僕ってばガラルに入れないポケモンだったな。見つからんようにしねぇと」

 そう、ドードリオはガラル地方に生息していない。生態環境を守るため、持ち込みが禁じられているポケモンの一種である。

 とはいえ、そもそもリカードは擬人化しているので、真っ当なポケモンですらないのだが。

「パッと見は人間の成人男性った感じだし、たぶん大丈夫だろう。それともやっぱりやめておくかい?」

「いや、行ってくるよ。うまくやるさ」

「地図は頭に入れたね? それじゃ、行ってらっしゃい」

 タブレットをユゴートに返し、大型の箱の前に立つ。

 プシューという空気の抜ける音と共に、金属製の扉が観音開きに口を開ける。人間が一人は入れるくらいのスペースになっており、その中には時空の歪みとでも言うべきか、向こう側の見えない黒い渦のようなものが広がっていた。これが、ユゴートの作り出す門と呼ばれる移動手段だ。

 意を決して、機械の中に入る。すると、視界が螺旋状に回転を始め、ひどく酔っぱらったときのように前後不覚に陥った。意識が混濁し、立っていることもままならないような感覚に襲われ、そして。

「うまく飛べたようだね? 帰りのことは何とかするから、せいぜい頑張りたまえ」

 誰もいなくなった機械の扉を閉じ、ユゴートがそんなことをつぶやいた。

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 ~ガラル地方 夜のワイルドエリア~

 到着したときの最初の感想は、思ったより冷えるな、といったものだった。

 どうやら無事に転移できたらしい。扱いとしては密入国になるのだろうか。そう思うとちょっとしたスリルを覚えてしまう。

 見渡す限り、ここは湖のほとりだ。その奥には、巨大な建造物が見える。長い階段を上った先にゲートがあり、目を凝らせば見張り番のように人間が立っているのが見えた。

 見上げれば星空が美しく輝いていた。星の並びから、自分が今向いている方角が北だとわかる。カロスやシンオウと見える星は違うが、野生で一人で生きていた時には星を数えるくらいしか夜の過ごし方を知らなかったリカードにとって、星空の法則性は頭に入っていた。

 イサラは現在、ユゴートの示した巨大な巣穴にいる可能性が高い。その場所は頭に入っているが、果たして本当にそこに彼がいるのか確証はない。

「さて、と。風邪をひく前に移動するとしますか。あんにゃろう、一体どこにいるのかね」

 リカードは静かに目を閉じる。

 視覚を殺し、聴覚を研ぎ澄ます。この広大な荒野で、闇雲に一人の男を探すのは無謀だ。

 それでも彼がやってきたのは、その自信があったからだ。

「…………」

 聞こえてくるのは、夜行性ポケモンたちの鳴き声と、すでに眠りについたポケモンたちの寝息、風の音、木の葉がこすれる音……。ただ聞いているだけでは、それら自然の音しか聞こえてこない。

 しかし、今探さなければならないのはイサラの痕跡。ユゴートの転送装置で同じ場所に転移したのであれば、この辺りに彼の痕跡があるはずだ。

 リカードは手にした槍の一本を握りしめ、力を籠める。すると、槍の先端がわずかに振動し始めた。これは彼の覚える技の一つ"超音波"だ。本来は相手の鼓膜を揺さぶり混乱させる音波を放つ技だが、これを応用する。普段以上の高周波を放ち、リカード本人にしか聞こえない音のソナーがイサラの痕跡を探る。

「見つけたぜ」

 瞼を開き、ソナーが感知した地点へと向かう。数歩進めば、柔らかい地面の上に靴の跡があるのがわかった。これは、地面に発した高周波がこの凹みに反射して聞こえてきたものを感知したため見つけられたものだ。他にも人間の靴跡は複数見受けられるが、その中に彼の履いている靴の形と一致するものがあった。

 そこから、まっすぐ伸びている靴跡を探す。彼の身長から逆算し、歩幅に合わせて地面を眺めてみると、比較的等間隔に並んでいる靴跡があった。あとはこれを辿るだけである。

「追うのはこれで良し。あとは人目につかないようにしねぇとな」

 リカードがそう呟くと、彼が手にしていた二本の槍が光の泡となってどこかへ消え去った。これは擬人化ポケモンたちの一つの能力であり、肉体の一部が変異して出来上がった彼らの服や武具は自由自在に姿を変え、自由に出し入れすることが出来る。本来、自身の姿を小さくできたり、分子レベルまで肉体を分解することでモンスターボールに収まる生態を持つポケモンたちにとって、体の一部を極限まで縮めて見えなくするなど当たり前のことなのだ。

 こうすればリカードは傍目に見て人間に見えることだろう。彼はラボにいる擬人化ポケモンの中でも、かなり人間に近い外見へと変化した個体だ。ワイルドエリアにいるのはほとんどがポケモントレーナーのはずなので、目を合わせてバトルを申し込まれないようにだけすればよい。

 リカードは歩き出す。走っても良いが、彼はドードリオ。人間以上の速度で走ってしまっては悪目立ちするだけだ。あくまで人間の早歩きくらいの速度で、彼はイサラの足跡をたどる。

「ったく、本当に面倒な手間かけさせやがって」

 お節介で飛び込んだだけなのは百も承知だが、そう毒突かずにはいられなかった。

 足跡が伸びる先は、やはり最近観測されたという巣穴方面だ。

 ・ ・ ・

「オイオイ、どういうこった?」

 星明りの下ワイルドエリアを進むこと一時間。リカードがたどり着いたのは、鬱蒼とした森林地帯の奥地にある岩壁であった。

 イサラの足跡はここで途切れている。ユゴートに見せてもらった地図の通りなら、ここに巨大な巣穴があるはずだ。しかし、眼前に広がるのはほぼ垂直の岩肌のみ。イサラはここを登ったのだろうか。彼の身体能力であればそれくらい朝飯前だろうが……。

「ま、僕を誤魔化そうったって問屋が卸さんのよね」

 リカードは再び槍を取り出し、"超音波"によるソナーを放つ。すると、この岩肌の奥側から反響音が帰ってくることに気が付いた。そこに岩肌があるのなら、音はそれに反射して帰ってくるはずなのに。

「お邪魔しますよっと」

 リカードは岩肌めがけて足を踏み出した。すると、まるでそこには何もないかのように体がすり抜けた。この岩肌はホログラムか何かによる幻影であり、実際には洞窟が口を開けていたのだ。

「わざわざ隠すってこたぁ、何かあるって言ってるようなもんだな。しかも隠し方が胡散くさいときた。まるでユゴートの姉さんみたいなことしてんなぁ。エスパータイプかゴーストタイプあたりの能力か、あるいは僕の知らない超技術か……」

 リカードは警戒を強め、槍を構えながら洞窟を進む。明かりは無く、視覚以外の感覚が頼りだ。ここでもソナーを使い、奥へと進んでいく。洞窟は思ったより構造が単純で、分かれ道は少ないように感じられた。そして、しばらく進むとソナーが何者かの存在を感じ取った。

「こいつらは……」

 感知したのは人型ではない。つまりイサラ以外の何者かだった。天然の洞窟なのであれば野生ポケモンが住み着いていてもおかしくないが、どうもここは自然本来の姿のまま手付かずと言ったわけではなさそうな場所だ。何せ、今のリカードは侵入者だ。彼らにとって招かれざる客といったところだろう。隠れ家を暴かれた住民たちがどのような反応を示すのか、想像に難くない。

 リカードが気を引き締めて進むと、急に開けた空間に出た。天井が高く、円形にくりぬかれたようなドーム状の空間だった。奥にはさらに洞窟が進んでいるようだが、先ほど感知した個体がその手前にいるようだ。

 すると、いきなり明かりが灯った。洞窟全体がまぶしく照らし出され、暗闇に目が慣れつつあったリカードは思わぬ目くらましに顔をしかめる。

「へぇ、驚いたな。どこから電気が来てるんだい?」

 洞窟の天井には人工的なケーブルが無数に張り巡らされており、複数の電灯がぶら下がっていた。壁や床は天然の岩肌そのものだが、どう考えても自然発生した空間でないことは火を見るより明らかだ。

 そして、リカードの目の前には一列に並んだ住民たちが三匹並んでいた。まるで侵入を感知していたかのように、行く手を阻むような陣形で。

「もしかして僕の"超音波"ってお宅らに聞こえてたりするのかね。オーベムさんたちよぉ」

 そこに並ぶのはブレインポケモンのオーベム達だった。胴体と腕のランプのような器官を虹色に点滅させ、時折鳴き声なのかわからない妙な音を鳴らしている。まるで宇宙人のようによくわからない生態を持つ彼らであれば入り口の幻影を作り出すことも、リカードのソナーに気付くこともできるのかもしれない。

「あー、驚かせて悪いな。一応挨拶はしたつもりだったんだが、気を悪くさせたなら謝るぜ。それより聞きたいことがあるんだが……」

 気さくそうに話しかけてイサラの居場所を聞き出そうと試みるも、そこまで話した途端オーベム達のランプが警戒色のように赤く光り始めた。まるで警報装置のように点滅する三匹のオーベム達を前に、リカードの顔から余裕が消える。

「おっと、騒ぎになるのは勘弁だぜ。用が済んだらすぐ帰るからさ。ここに青い服着て帽子被った胡散臭い兄ちゃん来なかったか? 僕ぁそいつを連れ戻せればいいんだが」

 問答無用、とばかりに放たれるのは"サイケ光線"だ。一糸乱れぬ動きで、三匹から同時に虹色の光線が放たれた。

「うおっと! 客に出すのが茶じゃなくてソレかよ! 大歓迎痛み入るぜ」

 瞬時に足に力を籠め、右に横っ飛びして回避する。その動きに合わせるかのように、オーベムたちは旋回して再び攻撃を放つ。中央の一匹を軸にまるで水泳の競技のように陣形を組んだまま動くオーベムたちは、一切の容赦なしで光線を放ち続ける。

「そっちがその気なら、悪いがお寝んねしてもらうぞ、と!」

 光線を避けるようにドーム状の空間を疾走するリカード。地を蹴り、壁を走り、攻撃をよけながら徐々に加速していく。オーベムたちはリカードの目まぐるしい立体的な動きに翻弄され、闇雲に"サイケ光線"を放つしかない。

 やがて、その動きにほころびが生まれた。一匹のオーベムが、リカードを見失い隙を見せた。

「そこだ! "電光石火"!」

 天井に張り付き、足をバネにして一気に加速。地上のオーベムめがけて、槍を突き出す。

 が、その攻撃はオーベムに届くことなく弾かれた。

「チッ、"リフレクター"か。それなら壁ごと吹き飛ばす!」

 隙を見せていたオーベムを他のオーベムがカバーするように"リフレクター"を展開していた。これによりリカードの物理攻撃はその威力を失ったものの、クロスした槍を思い切り振りきって"リフレクター"を叩きつけ、その障壁ごとオーベムを弾き飛ばした。物理攻撃を半減することはできるが、無力化することはできないのが特徴の技だ。

 飛ばされたオーベムは背中から壁に激突。目をまわしてノックアウト……いわゆる瀕死状態となった。

 しかし、一匹のオーベムを倒すのに夢中になっていたリカードに対し、今度はオーベムたちのターン。残された二匹が、リカードを挟むように展開し両腕を突き出す。

「しまった、"サイコキネシス"か! 思ったよりレベル高けぇなアンタら……!」

 超能力により拘束されたリカードが、空中に浮かび上がる。エスパー技の中で上位の威力を持つ"サイコキネシス"の二段重ねだ。筋力で振りほどくことはかなわず、そのままギリギリと締め上げられる。

「ぐあ……! いっそそのまま叩きつけてくれた方が楽だって言うのによ、趣味が悪いぜアンタら……」

 苦悶の表情を浮かべながら拘束されるリカード。両側からかけられる強力な圧力に、全身の骨が軋みだす。このままではまずい。

 と、その時だった。

「おやおや。随分と面白い格好になっていますねぇ、リカードさん」

 洞窟の奥から聞こえてきた言葉と共に、オーベム達が一瞬で弾き飛ばされて地面に転がった。拘束が解かれたリカードが地面に着地する。

「げほ……っ。あ助かったぜ、イサラの兄さん」

 そこに立っていたのは、リカードが探していた男の姿だった。指を鉄砲のように構えた彼の人差し指からは水滴が滴っており、ノックアウトされたオーベム達は水浸しだった。彼の得意技である"狙い撃ち"により射貫かれたのであろう。

 洞窟の奥からやってきたイサラは、コツコツと地面を踏み鳴らしながらリカードの下へと歩み寄る。

「いやぁ、大ピンチでしたねぇ。私がいなければ、今頃スルメのように伸びているところでしたよ? ところで、胡散臭い男を探していると仰っていましたが、どなたのことで?」

「いやアンタよアンタ。他に誰がいるんだ青い服着た胡散臭いの」

「これはショックです! そんなに臭いますかねぇ私……」

「あぁ、クセェクセェ。何か企んでやがる臭いが常にプンプンしてるからな。ていうか、それ聞こえてたんなら最初から見てたってことよな。なんですぐ手を貸さねぇし」

「それは勿論、私はリカードさんの実力を信用しておりますので。邪魔をしてしまっては悪いかなぁなどと思った次第にございます。どうです? お邪魔でしたかね?」

「わぁったよ、ありがとうって言やぁいいんだろ。助かった、サンキューな」

 はぁ、とリカードは息を吐く。この男と話していると色々な意味で疲れる。

「ところで本題だ。こんなところに一人で何しに来たんだ? クロヤリの旦那にも知らせずに単独行動なんて、あまり褒められた行為じゃあねぇな」

「お説教なら後にして頂けますかねぇ。私、まだここでやることがありますので」

「それを教えろってんだ。ここは一体何なんだ? なんでアンタだけで来たんだ?」

「質問が多いですねぇ。ではお答えして差し上げますので、交換条件といきましょう」

 は? とリカードは眉をひそめる。この男が何を言いたいのか、一瞬理解できなかった。

 イサラは大仰に天を仰ぎ、両手を広げ言葉を紡ぐ。

「ほら、よく言うじゃないですか。何かを得るためには、何かを差し出さなければならない。この世は等価交換だ、って」

「そんなに教えたくないことなのかよ。つまりアレだな? アンタは遠回しに『何も聞かずに帰れ』って言ってるんだな?」

「さっすがリカードさん! いやぁ、賢い方との会話はスムーズで何よりです」

 ぱちぱち、と乾いた拍手を送るイサラ。リカードとしては良い気分はまるでしない。

「誰がハイハイそうですかって帰るかよ。こちとら苦労して来てんだ。せめてアンタの目的だけでも話してもらわないとワリに合わねぇ。何を差し出せばいいんだ? 今夜の酒代か?」

 それも良いですが……と、イサラは帽子を深くかぶり直す。そして一歩、二歩とリカードの前まで歩み寄ると、

 

「貴方の命、ですかねぇ」

 凍えるような低い声が、リカードの耳元にかけられた。同時に、こめかみに指を押し当てられる感覚。

 瞬間、リカードは首が折れんばかりに頭を後ろに反らしていた。そうしなければ、今頃彼の頭蓋に穴が開いていたことだろう。イサラの人差し指から放たれた高圧水流がリカードの額をかすめ、頭に巻いたバンダナが宙を舞った直後、着弾した洞窟の岩肌をくり抜いていた。

 一瞬の出来事だった。射撃を回避したリカードはそのまま上半身を大きく反らし、バック転で距離を取った。それを追撃するのはイサラの"狙い撃ち"による高速連射。リカードはこれをアクロバティックに飛び跳ねながら回避し、やり過ごして着地する。

 二人の長い脚なら四~五歩で詰められる程度の距離にて、リカードが槍を構える。イサラは冷水滴る人差し指を向けたまま、困ったような仕草で肩をすくめる。

「あらら、外しちゃいましたねぇ。やはり私、こういう演出は向いていませんね?」

「そうだな……今のは勿体ぶらずにすぐ撃つべきだったぜ。流石に読めてるっつーの」

「おや、私が貴方を撃つことはバレておりましたか。参考までに、どの辺りから怪しかったか教えていただけませんか?」

「参考にならねーぞ。簡単な答えだ」

 ヒラヒラと足元に落ちてきたバンダナを拾い上げ、後ろ結びで頭に巻きつける。一見隙だらけなその行動を、イサラは発砲せず指先を向けたまま待っている。

 バンダナを巻き終わり、リカードは再び二槍を構える。

「最初っからだよ、オメーが怪しいのは」

「これは心外。信用されてないんですねぇ私」

 リカードが踏み込むのと、イサラが発砲するのは同時だった。

 イサラの早撃ちは脅威だ。実物の銃弾ほど弾速があるわけではないが、それでも目に留まらない速度で繰り出される水の弾丸はこうして相対してみると背筋が凍る思いをする。それでも、銃口が向いている方向にしか射撃できないのは"狙い撃ち"も変わらない。つまり、彼の人差し指の向きを見て弾丸が飛んでくる方向を予測して避けるしかない。

 およそ七メートルほどの距離を、リカードは一秒足らずで詰める。その間に発射された弾丸は三発。その全てがリカードの首筋や脇をかすめるも、その健脚を止めるには至らない。

 なぜ彼が、同じ仲間である男がこのように牙を剥いてきたのか。冗談にしては度が過ぎたこの行為の意味を考えるのは後回しにして、

「まずは減らず口を叩けなくしてやる! 話はそのあとだ!」

「口が利けなくなったら話せるものも話せなくなりますけどねぇ?」

 あと一歩で二人の身体が激突するであろう至近距離。リカードの槍が、獲物を捕らえる有効射程に入った。右手に持った槍で、イサラの肩を狙い突きを繰り出す。彼の得意技を封じるには、腕を潰すのが早い。

 しかし、リカードが貫いたのは空気の壁でしかなかった。リカードが最後の踏み込みを終える前に、イサラが半歩下がってその攻撃をいなす準備をしていた。肩口を狙った矛先はイサラの手前で止まり、片手で軽々と弾かれてしまう。

 しかしリカードの槍は一本ではない。間髪おかず、左の一撃がイサラ目掛けて放たれる。

 だが。

「いやはや、危ないですねぇ!」

 二発目の軌道も読まれていた。イサラはリカードの左手目掛けて"狙い撃ち"を発動。その矛先が届く前に、リカードの左手が水の弾丸にはじき返され、左手から飛んだ槍が宙を舞う。高圧水流を浴びた腕が思わぬ方向に弾かれ、リカードに苦悶の表情が浮かぶ。

 直後、その表情は悪戯な笑みへと変わる。

「想定通りだよ!」

 ニィ、と口角を吊り上げたリカードの眼前で、へらへらしていたイサラの表情から感情が消える。

 直後、イサラを襲うのはリカードの長い右足だ。振り子のように蹴り上げられた右足が、イサラの顎を狙う。その蹴りはまるで槍のように鋭く――、

「想定通りですよ」

 反射的に身を翻したイサラが、同じように蹴りを繰り出していた。片手で帽子を押さえて飛ばぬようにする余裕を見せながら。二人の足が交差し、筋肉と骨を軋ませるビリビリとした衝撃がリカードを襲う。

 リカードは舌打ちし、バック転で距離を取る。弾かれて宙を舞っていた槍が落下し、リカードの左手の中へと舞い戻った。

「"ダブルアタック"に見せかけた"騙し討ち"とは、趣味の悪い攻撃を思いつきますねぇ」

「アンタにだけは言われたかねぇよ」

「誉め言葉として受け取っておきます」

 会釈するように帽子をクイッと上げる仕草を見せるイサラ。それが挑発行為なのか、はたまた彼の性格から放たれる天然の仕草なのかはいったん考えないでおくことにする。

 涼しい顔しやがって、とリカードは思う。一瞬の攻防ではあったが、イサラは呼吸一つ乱しておらず何事もなかったかのようにそこに立っている。これまでもラボで練習試合などを頼んだことはあったが、そのたびに手を抜いたような様子ですぐ降参するような男であるため、その実力を正面から感じたことはなかった。

「アンタ、本当はめちゃくちゃ強いだろ」

「いやぁどうなんですかね。私は穏便に過ごしたい平和主義者ですので、強さに関してはそんなに自信がありません」

「本気でそう言ってんならこっちが凹むっつーの。日夜トレーニングして、強い奴らに置いてかれないようにしてんだからよ」

 普段と変わらぬ調子で問いを受け流すイサラに、ため息すら漏れるリカード。こっちはとっくに本気だというのに。

 手加減をして勝てる相手ではないのは百も承知。とはいえ同じくクロヤリというトレーナーに従う同僚であり、再起不能になるまで痛めつけるわけにはいかない。だが、おそらくこの男に対しては本気で挑む程度でちょうどいいのだと今わかった。

「いやいや、流石はリカードさんですよ。私の射撃が全然当たりません。これでも急所を狙って撃っているつもりなのですがね」

「……」

「それにしても、随分と早い到着でしたね。余計な邪魔が入らないよう、追っ手を妨害するようにオーベムたちを配置していたはずなのですが」

「待て、どういう意味だそれは」

 イサラの一言に、リカードが眉をひそめる。口にくわえた竹串を、ガリッと噛みしめる。

 その言葉からするに、まるでここにいるオーベムたちと手を組んでいるような意味合いにしか聞こえない。

「お察しの通りの意味だと思いますよ、えぇ」

「さっきオーベムたちから僕を助けたのも、油断させるための演技だったってワケかい」

「あー、そうとも言いますかね。助けたかったのは事実ですよ?」

「どうだかな」

 イサラの真意がつかめない。今明らかに殺し合いになっている相手を、助けたかったなどと言い張るその軽薄なツラをぶん殴りたくなってしまうが、リカードは知っている。この男は、嘘をつかない。

 リカードが気になるのは、イサラとオーベムが手を組み、一体何をしているのかということ。そしてもう一つ、果たしてイサラは自分の意思で手を組んでいるのかということ。

 オーベムがその気になれば、超能力で他者を操ることなど造作もないだろう。ここに調査にやってきたイサラをオーベムが操っている、という可能性もあるかもしれない。しかしそうなると、果たしてこの実力者が野生のポケモンに簡単に操られるのか、といった疑問が生じる。

 答えが堂々巡りする。結局のところ、本人から聞き出すほかなさそうだ。

「アンタが今どんな状態だとしても、ひとまずぶっ倒して連れ帰れば解決すンだろ」

「暴力的ですねぇ、もっと穏便にいきましょうよ」

「先に仕掛けてきたのはそっちだろォが!」

 ブレイクタイムは終了だと言わんばかりに、再びリカードが突撃する。二槍を巧みに操り、連続攻撃を仕掛ける。

 イサラはそれをひょいひょいと軽々しく回避する。その様子は舞踏のような美しさすら覚える攻防であった。

 しかし、ここでリカードの一撃がイサラを捕らえる。上半身を狙った槍による連続突きの回避に夢中になってイサラに対し、瞬時に身をかがめたリカードが足払いを繰り出した。

「おっ、と……」

 バランスを崩したイサラが背後に倒れ込む。そこを狙い、リカードの足技が追撃する。

「"地団駄"ァ!」

 直前の攻撃が外れることにより威力を増す地面タイプの技"地団駄"が、かかと落としの要領でイサラの腹部にギロチンのように襲い掛かる。背後には地面、正面にはリカードの攻撃。イサラに逃げ場はない。

 ……が、イサラの背中が地面に到着する寸前。イサラの姿が一瞬にして消えた。

「なっ……!」

 イサラがとった行動は、両手から水流を噴射し地面と水平になりながら横向きに飛ぶというものだった。まるでブロスターのジェット噴射のような緊急脱出だった。

 誰もいなくなった地面を、リカードの右足が隕石のように踏み締める。凄まじい地響きが洞窟を揺らし、天井にぶら下がった電灯がぐわんぐわんと暴れた。彼の右足が叩きつけられた地面は、蜘蛛の巣を張ったようにひび割れていた。

「ふう、危ない危ない。食らっていたらひとたまりもなかったですねぇ」

 イサラはリカードから距離を取り、これっぽっちの焦った様子もなく立っていた。水の滴る両手を軽く振るい、帽子の位置を直す。

「"アクアジェット"か。流石に技の出が早いな」

 相手の技よりも先に出すことが出来る先制攻撃技で、リカードの渾身の一撃を回避したイサラは、ふと気になるものを見つけたようにリカードの胸元を指した。

「おや……リカードさん。その首から下げている包みは何です?」

 言われて思い出すリカード。これはミクソンから受け取った『お守り』である。服の下に隠していたが、今の戦いの中で飛び出てきてしまったようだ。

「いや、僕にも何だかわからんのよな。別に強化アイテムってわけでもなさそうだし」

「ふむ……どうやらそのアイテムのせいで、道中オーベムたちをやり過ごすことが出来たようですねぇ。まったく、誰から受け取ったのか知りませんが余計なことをしてくれたものです」

 やれやれ、と肩をすくめて呆れたように両手を広げるイサラ。リカードはお守りの正体が気になり、その袋を開けてみる。そこに入っていたのは、一枚の『御札』だった。

「なるほど"清めの御札"ね。そりゃあアイツに相性悪いわけだ」

 これは野生ポケモンと出会いにくくなるアイテムだ。確かに言われてみれば、この洞窟に至るまでの間に野生ポケモンとほとんど出会ってないなとリカードは思い出す。もしイサラと組んでいるオーベムと遭遇していたら、洞窟に近づくリカードを止めに来ていたことだろう。

 あとで礼を考えておかないとな、と心の中でミクソンに感謝しつつ、再び服の内側にお守りを戻す。

「おかげで不要な戦闘をせずに来られたってわけだ。アンタとやり合うのに、万全じゃなかったら今頃負けてるだろうからな」

「その言い方ですと、万全な今なら私に勝てるって仰ってます?」

「さぁね。アンタの実力は未知数だし、僕にはアンタがまだ手を抜いてるようにしか見えねぇよ。だが、負けるつもりはないがね」

「随分と熱くなっちゃってますねぇ。これで少し、頭を冷やしなさいな」

 イサラはそう言うと、両手を前に突き出し二本の人差し指をリカードへと向けた。

 リカードは思い出す。イサラがこの戦いの中で、今まで片手しか使っていなかったことを。

「受けきれますかねぇ?」

 イサラの二丁拳銃が火を噴く……否、水流を噴いた。

 無数の水の弾丸が、驟雨のごとくリカードに襲い掛かる!

「うおぉっ! "乱れ突き"ィ!」

 横なぎに襲い来る暴風雨のような射撃を、リカードは二本槍の連続攻撃で迎え撃つ。

 さながらそこに、見えない傘があるかのように。リカードの目に留まらぬ高速攻撃がイサラの水弾を突き崩し、霧散させる。防ぎきれずに槍の隙間を掻い潜って飛んできた一発の弾丸を、口にくわえた串を飛ばしてその威力を殺す。破裂した水泡がリカードの髪と体を濡らし、雫に乱反射した光が小さな虹をかける。

 立ち込める朝霧の中に立ち尽くすかのように、すべての攻撃を防ぎ切ったリカードが息を上げて額の水滴を拭う。

「くっそ、さっきまでより一発が重いじゃねぇか。ぜぇ……どうしたよ、弾切れか?」

 いきなり攻撃を止めたイサラが、両腕を突き出したまま「ふぅむ」と小首をかしげる。

 その品定めするような、いちいち小馬鹿にしたような仕草が人の神経を逆なでる。コイツは人に嫌われるためにわざとやっているのかと勘繰りたくなる。

「確かにこのままではPP切れになりそうですねぇ。やはり速度で貴方と勝負するのは簡単ではないようです」

 では、と。イサラの口角が吊り上がるのをリカードは見逃さなかった。

 何かが来る。リカードの前髪の先端から、水滴が地面に落ちた瞬間だった。

 イサラが左手を右腕に添たかと思うと、右手の人差し指が発光した。リカードはこの瞬間、防ぐのをやめて回避するよう体に命令していた。足先にぐっと力を籠め、その攻撃が届くよりも先に横っ飛びする。

 直後、イサラの指先から半透明の光線が照射されたかと思うと、直前までリカードの立っていたところが氷漬けになっていた。氷タイプの技"冷凍ビーム"である。

「飛行タイプを相手するなら、こちらの技の方が良かったですねぇ」

「あーもう、これだから水タイプとのバトルは好きじゃねぇんだ! どいつもこいつも氷技使うんだもんよ!」

 悪態をつきながら、次々に襲い来るビームを回避する。着弾した壁や天井が次々に氷漬けになっていき、殺風景だった洞窟の内部がクレバスのようになっていく。

 先ほどまでの"狙い撃ち"よりも弾速は遅く、軌道が読みやすいため回避はそう難しくない。だが、ここにきて先ほどまでの激しい攻防で蓄積した疲労がリカードを襲う。

「どうしましたか? 随分と動きが遅くなっているようですが」

「お前、わざと無駄な攻撃でこっちの疲労を誘ってやがったな!」

「気付くのが少し遅かったですね。私と戦うなら、もっと序盤で一気に畳みかけるべきでした。なぜなら、貴方は体力が減るほど大技が出しにくくなる。しかし、私はその逆ですから」

 リカードの持つ大技である"ブレイブバード"や"飛び蹴り"は、リスクとして反動のダメージを受ける性質がある。体力が減ってから使うには身を亡ぼす危険があるのだ。対してイサラには体力が減るほど水タイプの威力が上がる"激流"という特性がある。消耗戦になるほどイサラの方が優位に立つのだ。

 動きの鈍ったリカードを、イサラの攻撃がついに捕らえる。壁や天井を蹴って走り回っていたリカードの右腕に、イサラの"冷凍ビーム"が直撃する。

「ぐあぁっ! 効くじゃねぇかチクショウ!」

 肩から右手までが氷柱のように固められたリカードが、その足を止めて跪く。氷漬け状態と化した腕は動かず、リカードの体力を大きく奪っていった。

「タイプ相性ってやっぱり大事ですねぇ。一発当たればこの通り」

 ふぅっと、イサラが指先の冷気を吐息で吹き払う。帽子やネクタイのズレを几帳面に直し、コートを翻してリカードの元へと歩み寄ってくる。凍った地面を踏み鳴らすたび、パキ、パキ、と氷面の割れる音が響く。

「勝負は決まりました。あとは大人しくくたばってくださいね、リカードさん」

「情け容赦無しって感じだなこりゃ。僕の目にはアンタは善人に見えていたんだがね」

 凍り付いた右腕を庇いながら、見下ろしてくるイサラを睨み上げる。まだ逃げる力は残っているが、果たしてこの男が易々と逃がしてくれるだろうか。

「それは嬉しいですが、残念。どうやら貴方の目はくすんでいたようです。さて、逃げられてあのラボのメンバーを呼ばれても面倒ですからね。貴方とはここでお別れです。お得意の"逃げ足"を使われる前に、トドメを刺しておきますかね」

 万事休すといったところか。イサラはリカードの特性まで考慮に入れ、逃がすつもりは一切ないらしい。

 ゆっくりと、イサラの指鉄砲がリカードの眉間に据えられる。この距離で本気の"狙い撃ち"を放たれれば、リカードの頭蓋はいともたやすく砕け散るだろう。

 と、その時であった。

「よくやった、イサラ。侵入者をこうも一方的に拿捕するとは、お前をみくびっていたぞ」

 くぐもった調子の声が、洞窟の奥から聞こえてきた。

 イサラがつまらなそうに振り返る。リカードが同じ方向に視線を向ければ、そこには何匹ものオーベムを引き連れた一匹のポケモンが中央に浮かんでいた。

「いいところで水を差さないでくださいよイオルブさん。今のはトドメを刺してから出てくる場面でしょう?」

 ななほしポケモンのイオルブが、人語でイサラと会話している。どうやら、彼がこの拠点の主らしい。

 イオルブが人間の声帯に近づけたような機械音声でごろごろと話す。

「トドメを刺されては困るのだ。せっかくお前に釣られて一匹迷い込んだのだ。捕獲して活用させてもらう」

「随分と流暢に喋るイオルブだな。見たところ野生みたいだが……僕なんかを捕らえてどうするつもりだい?」

 苦悶を浮かべながらもリカードが問いかける。口元は笑っているが、その表情に余裕はない。

「貴様ら擬人化ポケモン共が流暢に喋るのとなんら変わらんだろう。貴様の役目は『餌』だ。貴様らの主人を誘い出すためのな」

 その言葉に、リカードの表情から笑みが消える。

「クロヤリの旦那に、何の用だ」

「私はね、君らのように擬人化してみたいのだよ」

 虚を突いたような台詞に、リカードの思考が一瞬止まる。

 ひどく細い針金のような腕を組みながら、宙に浮かんだイオルブが言葉を紡ぐ。

「あの男がこのガラル地方に来た時から観察していた。どうやら奴の周りでは擬人化現象が起きやすい傾向にあるようだな。擬人化現象の原因はさまざまだが、特定の人物のそばにいると発生するというのは興味深い。妙な薬に頼らず変化できるのであれば、安全性があるというもの。その研究ために、あの男を誘い出させてもらう」

「擬人化してどうしようって言うんだ」

「姿が人に近づくということは、人に怪しまれず社会に溶け込めるというもの。私の目的は、人間社会の支配だ」

 コイツは何を言っているんだ? と無限に疑問符が浮かんでくる。まるでロケット団のようなことを言っているが、つまるところこの虫ポケモンは世界征服でも企んでいるのだろうか。

「これ以上の問答は不要だろう。人間社会をどう支配するのか? 支配してどうするのか? などといった質問攻めに答えるつもりはない」

「そうかい。だが、随分と回りくどい手段だな。旦那を誘い出したけりゃ、手紙に『バトルしようぜ』とでも書いて送りつけりゃ早いだろうぜ」

「そうもいかんよ。なぜなら、あの男のこれまでの経歴は調査済みだ。ホウエン、シンオウ、カロス、アローラのチャンピオンとなり、このガラル最強のトレーナーであるあのダンデを打ち破ったトレーナーに、正面から挑むつもりなど無い。そのために、協力者と人質が必要だったのだよ」

 人質とは、今ここで無様を晒している自分のことだろう、とリカードは思う。ユゴートの言った通り、厄介ごとに首を突っ込んだ結果がこれだ。

 そして、協力者と言うのは勿論。

「貴様が来てくれて助かったぞイサラ。おかげでカードが揃った」

「礼には及びませんよ。報酬ははずんで貰いますがね」

 くはっ、とリカードが吹き出す。

「しっかり契約関係ってか。そこの天道虫の何がいいのか、答える気はあるんだろうな?」

「……」

 イサラはリカードの言葉に答えない。ただし、その瞳が得物を狩るときの不気味で野性的なものに変わっていることを見過ごさなかった。

 くぐもった声が聞こえる。

「あまりその男を刺激するな。今やそのイサラと言う男は私の手駒だ。主である私に危害を加える、あるいは貶めるような発言をすれば、自動的に敵とみなして襲い掛かる。人質なのだから大人しくしてくれないかね」

「つーことは、やっぱり洗脳されてんのかいイサラの兄さんよ。何があったんだアンタ」

「この男は、私が貴様らのトレーナーを嗅ぎ回っていたことをいち早く察知したようだな。何か別の目的があるようにも思えたが、我が研究所に侵入してきたところを捕らえさせてもらったのだ。おかげで研究の足掛かりが出来て助かったよ」

「なんで一人でやろうとするかねぇそういうことを……」

 呆れ半分、安堵半分のため息が漏れる。呆れは言わずもがな、イサラの悪癖である「誰にも相談しない」が発動していたことに対して。安堵は、イサラが自分たちを裏切ったわけではなかったことに対して。命のやり取りをした今の一時でも、彼のことを疑ったリカードは自分を恥じた。

「イオルブさん、喋り過ぎですよ。人質に情報を与えすぎないでください。何も知らないくらいでちょうどいいんですから」

「ふむ、すまんなイサラ。調子が良いとつい手の内を晒したくなるものだ。しかし、貴様は恐ろしい男だ。我が"催眠術"の洗脳下にありながら、私に意見できるほどの自我を保てるとはな」

 さて、と。イオルブがリカードと向き直る。同時に、待機していたオーベムたちがリカードを取り囲む。同時に、それまでリカードに銃口である人差し指を向けていたイサラが離れる。

「話はこれくらいでいいだろう。お前にも催眠をかけさせてもらう。逃げられぬよう念入りにな」

「このオーベム達も、お前さんに操られてるってわけかい」

「そうでもないさ。こいつらは自分の意思で私に従っている。人間社会を崩壊させれば、自分たちの種族がより暮らしやすくなるとわかっているのだろう。そう、人間は我々ポケモンにとって邪魔なのだよ」

 そのように語るイオルブに合わせて、イサラがくっくっと哄笑を漏らす。

「いやはや人間という生き物は本当に愚かです。驕り高ぶって、自分たちの種族が一番偉くて強いと思い込んでいる。そして同時に、欲望の絶えないみじめな種族でもあります。ありとあらゆるものに対して欲深く、時には欲望をかなえるために神にすがることまである。神様が、自分たちの都合通りになると信じてやまない、愚かで悲しい種族ですよ」

「イサラ、貴様随分と人間に対しての造詣が深いな。しかし、まさしくその通りである。人間とは愚かな生き物だ。我々が支配してやった方が上手く生きられることだろう」

「これでも色々ありましたのでねぇ……。しかし、よろしいのですか? 擬人化するということは、その愚かな種族に近づくということですが」

「皮肉のつもりか? 私がそのような愚鈍な存在だとでも? 人間のような愚かさは晒さぬよ」

「どうですかねぇ……」

 と、イサラが帽子を深々と被り直す。その口元には、微笑が蓄えられていた。

「敵が乗り込んできたというのに、浮かれて出てきてしまう主人ですからねぇ。部屋に引き籠っていた方が安全でしたのに」

 刹那。

 イオルブが苦痛の声を上げたのは、閃光と同時だった。

「イサラ……ッ、貴様……!」

「おや……"光の壁"を張っていましたか。しっかり急所を狙って撃てばよかったですねぇ。これでは微々たるダメージでしょうかね?」

 リカードの目に映ったのは一瞬の出来事だった。

 イオルブに背を向けていたイサラが、コートの内側から背中側に向けて"狙い撃ち"を発射。コートを貫通した水の弾丸が、イオルブの胴体目掛けて飛翔。しかしその弾丸は"光の壁"に阻まれて失速し、何とか貫通するも大打撃とは至らぬ水かけ遊び程度にとどまった。

 その行動に、取り乱したようにオーベム達が騒ぎ始める。その一匹一匹を、イサラが片っ端から"狙い撃ち"でノックアウトしていく。

 その間際に、一発の弾丸がリカードの右腕に命中。彼の腕を封じていた氷の束縛が破壊され、リカードが自由を取り戻す。

「……ったく、本当にそういうところが腹立つぜアンタ!」

 意図を理解したリカードが、即座に反応。イサラに向けて"サイケ光線"を放とうとする一匹のオーベムを"電光石火"で蹴散らす。

「思ったより元気で安心しましたよリカードさん。まだまだ動けそうですねぇ?」

「元気なモンか。ヒットポイント赤ゲージだっつーの。最後本気で仕留めに来やがってこんちくしょう」

 首をゴキゴキ鳴らし、肩をぐるりと回す。何とかまだ動けるか、といったところだが、ここからが本番だとリカードは気合を入れ直す。

 身体を濡らしたイオルブが、怒りに震えた声で吼える。

「この私を裏切るかイサラ! いつだ! いつ洗脳を解いたのだ!」

 その迫真の問いに対し、イサラは普段通りの笑みをたたえて答える。

「んん~そうですねぇ。まず、そもそも仲間になった覚えがございませんので裏切りとは違うかと。次いで洗脳に関してですが、こちらもかかった覚えがございませんので、はい」

「すべて演技だったというのか……だが! 私の"催眠術"はそこらのエスパータイプのモノとはわけが違う。今まで洗脳されなかった者はいないのだ! 一体どうやって防いだ!」

「どうやって、と言われましてもねぇ」

 イサラはわざとらしく考え込む仕草を見せる。頭を抱え込んで、大げさにうーんうーんとうなっている。仲間だけど張っ倒したくなるな、とリカードは思う。

「あぁ、簡単な話ですねこれ。イオルブさん、貴方は私の脳を操ることで人格を支配しようとしましたね? ですが残念。私の人格はこの身体の持ち主とは違うものでして。脳を支配されたところで"私"が支配されるわけではないので。乗っ取り返すことなど造作もないかと」

 人差し指をピッと立てて、丁寧に丹念に説明するイサラ。その言葉に、リカードは「そういうことかい」とすべてを察したため息を漏らす。イサラの正体については、リカードも薄々と感じていたのだ。

 そう、イサラは異世界から精神体のみでやってきた"元人間"だ。その精神が野生のインテレオンに憑依し、擬人化した存在である。つまり、肉体と精神が別人なのだ。

「私が支配したのは肉体の方であって、貴様の精神までは支配できなかったと言いたいのか……! くっ、まぁいい。ならば再びとらえるまでのこと。今度は貴様ら二人とも完全に洗脳してくれる!」

 イオルブがそう言うと、彼の頭部の七つ星が不気味に点滅し始めた。それを合図に、洞窟の奥から無数のオーベム達が姿を現した。

「オイオイ、大ピンチだぜイサラの兄さん。裏切るタイミング、今で良かったのかい?」

「えぇ、今しかなかったでしょうね。私一人でこれ全部を相手するのはいささかキツくてですねぇ。一人でも仲間がいるときに、あの頭でっかちが姿をさらしてくれるタイミングを狙っていたのですよ」

 イサラはそこで言葉を切り「あとですね」と続ける。

「もう一度言いますが、裏切ってなんかいないですよ。私の信条はですね、リカードさん」

 言葉を紡ぎながら、イサラが右手を胸の前に構える。手のひらの中に水の塊が出現し、それが六十センチメートルほどの棒状へと変形していく。

「嘘をつかないことと、仲間を裏切らないことなんですよ」

「かかれぇ!」

 イオルブの号令と共に、オーベムの軍団がリカードたちに押し寄せる。

 水の警棒を手にしたイサラが、近づいてくるオーベムを一薙ぎする。高圧水流で生成された鈍器が、破裂音と共にオーベムを吹き飛ばす。

「へぇ、"アクアブレイク"かい。肉弾戦も行けるんだなアンタ」

 軽口をたたきながら、イサラと背中合わせになるようにオーベムを迎撃するリカード。連続で発射される"エナジーボール"を"乱れ突き"でいなしていく。

「いやぁ、得意じゃないんですよこれが。ですが"光の壁"を張られたんじゃ特殊技で攻めにくいですし、"リフレクター"を使われてもこの技なら防御力を下げつつ殴れますので、都合良いかと」

「苦手と言う割にはサマになってるぜ。向こうの世界じゃ相当やんちゃだったんじゃねーか?」

「そんなつもりはないんですがねぇ……おっと、危ない危ない」

 まるで日常会話を楽しむかのような調子で言葉を交わしつつ、オーベム達の怒涛の攻撃をしのいでいく二人。イオルブの呼んだ援軍が、あっという間にダウンしていく。

「くっ、役立たずどもめ……」

「そこらの野生ポケモン寄せ集めただけじゃ、結局はこの程度ってこった」

「おやおや。リカードさんさっき苦戦されていたように見えましたが?」

「潜入したは良いものの日和って様子見してたヤツにいわれたかねーよ」

 目を血走らせわなわなと震えるイオルブを尻目に、肩を並べて煽り合う二人。オーベムたちは全員戦闘不能、目を回してノックダウンしている。

「さて、あとはアンタだけだイオルブさんよ。僕らのトレーナーを狙おうなんて考えるおっかないヤツには、ちょいとばかりキツめに行くぜ?」

 リカードが一歩踏み出し、槍の穂先をイオルブに向ける。

 頭数と実力の差は歴然。大人しく降参するようであれば、半殺しくらいで許してやるかと情けをかけようとしていた時だった。

「確かにこのまま戦っても私の敗北は確実だろう。ここは心底苛立たしいが、逃げさせてもらうとしよう」

「堂々と逃げられると思うなよこの……ッ?」

 背中を向けて逃げようとするイオルブ目掛けて突き出した槍が、地面に吸い寄せられて床を穿った。軽々と扱っている槍が、まるで丸太のように重くなったのだ。

 イサラは無言で"狙い撃ち"を放つも、その弾丸も直角に落下して地面を濡らしただけだった。

「"重力"ですか、それもかなり強力。エスパー技を組み合わせた結界のようなものでしょう。これでは追いかけるのは無理ですねぇ」

 イサラが呆れたように笑いながら肩をすくませる。降参だとでも言うような仕草だが、放っておくわけにもいかない。

「ヤツが逃げた方向へ、他の場所から行けないのかい」

「おそらく無理でしょう。ドリュウズやドサイドンでもいれば、岩盤を掘り進んでいけるかと思いますが」

「ハリスの姉さんでも呼ぶか?」

「やめておきましょう。扱いに苦労しますので」

 まったくだ、と空笑いする。ラボでくしゃみしているサンドパンの姿が浮かぶ。

 どうしたものかと悩んでいると、どこからか地鳴りのような音が聞こえてきた。

「ん? 地震か?」

「これは……リカードさん、外に出ましょう。潰されてしまいます」

「おい、それはどういう……ってはえーなアンタ!」

 急に真剣な面持ちになったかと思えば、入り口の方へと一瞬で駆けていくイサラ。リカードも置いていかれまいと疾走する。

 振動は急激に加速し、洞窟全体を大きく揺らす。天井の蛍光灯がチカチカと瞬いたかと思うと、パリンと割れて降り注いだ。剥き出しの岩肌に亀裂が入り、砂埃が舞い始める。

 薄暗く狭い洞窟から脱出すると、星の瞬く夜のワイルドエリアが待っていた。風が心地よく、空気が澄んで感じる。イサラとリカードは絶えず続く揺れの中、洞窟を振り返る。どうやら崩落した形跡はないが、もう一度入るには相当の勇気が試されるだろう。

「いったい何が起きたんだ? イオルブって"地震"なんか覚えたっけか?」

「すぐにわかると思いますよ。ほら、あそこです」

 イサラが指さす方向にリカードが目を向ける。さっきまでいた洞窟のある崖の上……星が浮かぶ夜空がそこにあった。

 次の瞬間、揺れが一際大きくなったかと思うと、巨大な何かが地中から姿を現した。

 森の木々がバキバキと倒壊し、地面が皮の裂けたまんじゅうのようにめくれ上がる。夜空に浮かび上がったのは、巨大な七つ星……否、キョダイマックスしたイオルブの姿だった。

「あー、そういう……」

「これはこれは、随分と悪趣味なお天道様ですねぇ」

『逃げるとは言ったが……貴様らは私をみくびりすぎた。その無礼には相応の代償を支払ってもらおう』

 夜空から低い、くぐもった音声が降り注ぐ。

 ひっくり返った森の中で眠りについていたポケモンたちが、必死に逃げていく様子が目に入った。無数のココガラたちが飛び立ち、虫ポケモンたちが這うように逃げてくる。この騒ぎでは、ワイルドエリアを巡回しているリーグ委員たちの目につくのも時間の問題だろう。

「あんまり目立ちたくないんだがねぇ。イサラの兄さん、あとは任せるって言ったら怒るかい?」

「奇遇ですねリカードさん。私も同じことを言おうとしておりました」

 闇夜に浮かぶ巨大な円盤を見上げながら、互いに面倒を押し付けようとする二人。

 あのイオルブのキョダイマックスは、通常目にするものとは比べ物にならないほど本当に巨大であった。

 一般的なキョダイイオルブの2倍、いや3倍ほどはあろうかという姿は、まさしく宇宙船のような迫力だ。ネオンのように光を灯す七つ星が、夜空を不気味に彩っている。

『いざという時のために溜め込んだダイマックスエネルギー……こんなところで消費するのは不服だが、まぁまた溜めればよかろう。貴様らはここで全力で潰す。騒ぎを聞いてやってくる連中は、催眠にかけて洗脳してやるとしよう』

「本当に面倒くさいなコイツ! エスパータイプってのは何でこう無駄に便利な能力持ってるんだか」

「まぁ文字通りにエスパーですからねぇ。今からでも悪タイプになってみます?」

「リージョンフォームかぁ、なるほどなぁ。どうやったらなれるんだい」

「う~んそうですねぇ、万引きでもしてきたらいいんじゃないですか?」

「ソレただの犯罪者なんよ」

 この状況下で漫才のようなやり取りを見せる2人に、イオルブがついに激昂する。

『この私を無視しての減らず口、利けなくしてくれる! 潰れるがいい!! "巨大天道"!!』

 イオルブの眼が怪しく光ったかと思うと、その眼前にエネルギーが集まっていく。

 そして爆発するように放たれたサイコパワーが、放射線状に地上へと降り注ぐ。その圧倒的な攻撃範囲は、リカードとイサラの逃げ足の速さをもってしても避けきれるサイズではない。

 2人が光の柱に飲み込まれた直後、すさまじい爆音とともに衝撃波が地面を走った。地鳴りがワイルドエリアを震わせ、イオルブの放った"巨大天道"による強い重力が爆心地を押し潰し、土煙を舞い上がらせ――

『……待て、なぜ煙が上がる? 我が重力波によって、全ては地に飲まれるはず――』

 強い重力は、どんなに軽いものでも押し潰してしまう。それこそ土煙でさえ、舞い上がることなどないはずだ。

 もうもうと立ち込める茶色い煙の中で、青白い閃光が瞬いていた。

「――起きろ、"無名祭祀書《ネームレス・カルト》"」

 突如、激しい水流が竜巻のように立ち上り、土煙を吹き飛ばした。

 その中心に立つのは――否、天高く浮かび上がったのは、キョダイマックスしたイサラの姿だった。

『なるほど"ダイウォール"で防いだか。私のように巣穴のエネルギーを溜め込んだわけでもなく、トレーナーに飼いならされたポケモンが、ダイマックスバンドも無しにキョダイマックスするとはな』

「私のキョダイマックスは少々特殊でしてね。通常のダイマックスとは異なるエネルギーを利用しているものですから」

 イオルブと同じ目線まで浮かび上がったイサラが、いつの間にか右手に出現した禍々しい書物を一瞥する。彼の目の前には青白い障壁が顕現しており、それが"巨大天道"を防いでいたのだった。

『……深淵の力か。あまり褒められた行為ではないな、人間よ』

「あらら、もしかして私の正体までわかっちゃいました? まぁあの流れで気付かない方が愚鈍というものですが」

 タコの触手のようにうねるコートの裾を足場に、空中に浮かびあがったイサラがわざとらしそうに肩をすくめる。その様子を、彼の真下から見上げるようにしてリカードが口笛を鳴らす。

「ヒュゥ。間近で見るとたっけーなぁ。首が痛くなりそうだ」

「リカードさん、私が隙を作るので、いい感じにやっちゃってくださいね」

 上空から降ってきた声に、リカードは「は?」と疑問を投げ返す。

「てっきりイサラの兄さんがやるもんだと思ってたがね、僕が本命なのかい? ダイマックスはダイマックスで何とかしてもらいた――」

「やれるだろ?」

「――当たり前だ」

 食い気味に仕切り直され、思わず即答して見せるリカード。その表情には、自信に満ちた笑みが浮かんでいる。 

 一歩ずつ、一心に。彼の一生は、努力と研鑽の積み重ねだ。踏み締めてきた道のりは、あの強大な重力よりも重い。

「曲がらず――」

 いつしか自分にふさわしいトレーナーと旅に出るために。

「折れず――」

 自分を必要としてくれた人に応えるために。

「立ち止まらず――」

 手にした二本の槍と、魂に刻んだ『突き進む』という想いの槍を握りしめる。

 今ここに、彼の在り方を記そう。

「"踏み締める健脚《トライデント・スピード》"!!」

 咆哮、跳躍。

 それはポケモンの技ではない。人の姿を得て、その姿で戦うために鍛え上げた彼のオリジナルだ。

 打ち上げロケットのように飛び上がったリカードが、イオルブ目掛けて一気に飛翔する。

 一歩では届かない道のりも、次の一歩を踏み出せばいいだけのこと。

 リカードは空を駆け上がる。さながらそこに見えない床があるかのように、虚空を蹴って空を跳ぶ!

『小癪!!』

 眼前に迫るリカードを迎撃するべく、イオルブが高密度のサイコパワーを放とうとする。

 しかしそれを許すイサラではない。

「貴方は先ほど『人間社会を支配する』と豪語していましたが、そのために貴方は人間を知らなさすぎる。そして、クロヤリという人間を知らなさすぎる」

 構えた指先に水流が渦巻く。それはやがて、巨大なスナイパーライフルを模っていく。

「人間は確かに愚かで悲しい種族です。だからこそ、一人で何もできないことを知っている。仲間の大切さを知っている」

 

 銃口は標的に、指はトリガーに。

「あの男の強さは、仲間の強さ。彼の下に集まったのは、彼のために戦おうという意思を持った者たち。仲間を持たず道具として利用するしか能のない貴方には、きっと理解することのできない強さでしょう」

 つまり――と、イサラが嗤う。

「もう少し勉強して出直してきやがれ、三下野郎」

 ヒュン、と風切り音が夜空を引き裂く。

 放たれたのは、男の精神を喰らって作られた水流の弾丸。

 着弾までに時間の概念は不要。その狙撃は、たとえ水タイプの技を無効化する力すら無効化し、標的を必ず射貫く。

『ぐ、オオおおおおッッ!?』

 すさまじい大瀑布がイオルブを飲み込む。着弾の直前に照射された"巨大天道"は、イサラの"巨大狙撃"によりいともたやすく霧散していた。

 イサラの視界がブレる。領域外の知識による代償は、持ち主の精神力と正気だ。気を抜けば己自身の心の闇に飲まれる……今はまだ、自分を見失ってはいけない。

「最高の援護射撃だ、イサラ!! そんじゃ後は……"俺"の仕事だ!!」

 槍の穂先が、軋るような甲高い声を上げて回転する。二本の"ドリルくちばし"を、自身も回転しながら叩き込む!

 

『ガァァアアアアアアッ!?』

 咄嗟に身を傾けて避けようとしたイオルブだったが、その巨躯が災いしたか動きは鈍重。夜空を突き抜けるリカードの一撃が、肥大化した後頭部を貫いた。

 雄たけびを上げながら、イオルブが収縮していく。傷を負わせた場所は急所ではなかったようで、向こう側が見えるほどの穴が開いているがイオルブはまだ動いている。しかし、力なくふらふらと宙を漂うだけだった。

 気付けばイサラも元のサイズに戻っていた。貧血が起きたように膝をついたが、すぐに立ち上がる。

「さて、どうしましょうかリカードさん。息の根を止めるか、二度と同じようなことをしないようトドメを刺すか」

「どっちもトドメ刺してんのよソレ。クロヤリの旦那なら、なんて言うと思う?」

「捕まえてレンジャーユニオン支部に送り付けて更生させる、ってところでしょうねぇ。ですがそのためにはクロヤリさんに事情を伝える必要があるわけですが、面倒くさいのでバックレられないですかね?」

「ここまで来てそれかよアンタ。まぁでも割と同意。疲れたぜ」

 アドレナリンが切れたように、リカードはその場に座り込む。ほぼ休憩なしで戦い続けたことで、彼の体はボロボロだ。帰ってシャワー浴びてビール飲みてぇ、しか頭に浮かんでこない。

「そういえば、帰りのことは何とかするって言われたんだが……どうやって帰ればいいんだい?」

「それならご安心を。既にユゴートさんには連絡済みです」

 イサラがそう言うと、二人の目の前の空間に渦巻のような光が浮かび上がった。ユゴートの使う《門》だ。

 どっちも仕事が早いなと感服するリカード。ふと思い出したように夜空を見上げると、そこにあのイオルブの姿はなかった。

「……痛い目を見て諦めてくれるといいんだがねぇ」

「どうでしょう。ま、次に妙な動きをしたらどうなるかくらいはわかるんじゃないですか?」

「僕はお前さんが一番こえーよ」

 槍を杖代わりに、よっこらせと立ち上がる。

 耳をすませば、遠くから人の声が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけて確認しに来たリーグ委員会の男たちだろう。

「おっと、僕は見つかっちゃまずいな。不法入国がバレちまう。イサラの兄さん、帰ろうや」

「あ、どうぞお先にお帰りください。私はあの人たちに説明することがございますので」

 イサラはそう言うと、先ほど飛び出してきた洞窟の入り口を指さす。

 リカードは「あぁ」と納得する。もし後からやってきた人間たちが、あの崩れかけた洞窟に入ってしまったら危険だ。イサラは擬人化ポケモンの中では人間に近い容姿をしているため、人間たちと接することに問題はないだろう。もっとも、それを差し引いても言動が怪しすぎるのが不安だが。

「じゃ、そうさせてもらうぜ。あんまり寄り道すんなよ」

「小学生じゃないんですから、大丈夫ですよ」

 イサラが背を向け歩き去っていくのを確認した後、リカードは空間に開いた渦の中へと消えていった。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐​‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 コツ、コツ、と。靴底が硬い地面を鳴らす音が反響する。

 明滅する蛍光灯が照らす洞窟の中、垂れ下がったケーブルをくぐるように進んでいく。

 辿り着いたのは、崩落しかけた洞窟の一番奥。武骨な岩肌から無機質な壁へと景色が変わった。奇妙な機械類が並んでおり、巨大な調理鍋のような金属の筒に向けて無数のパイプが伸びている。衝撃で倒れた本棚から無数の本が散らばっており、その中には人間の生活や人類学にまつわる資料が目立った。

 割れた戸棚から飛び散ったガラス片を踏みつけながら部屋の奥へと進んでいくと、ぐったりと横たわる主犯格の姿があった。

「おやおや、あの怪我で致命傷を避けていたとは。あの巨大な頭部は、ハリボテだったということでしょうか」

「イサラ……何をしに来た。私を笑いに来たか、それとも始末しに来たか……どちらだ?」

「どちらでもありませんね。貴方のコトなど眼中にありませんし」

 

 返しのついたトゲのような言葉を吐きかけ、イサラは部屋の中をぐるりと見回す。特に、その巨大なタンクのような機械には見覚えがあった。

「とある場所で似たような機械を見ましたよ。貴方の場合、ナックルシティの地下プラントですかね? マクロコスモスから情報を抜き出して、再現したというところでしょうか」

「フン、ご名答だ。私があれほどのキョダイマックスエネルギーを得られた理由がこれだ」

「このワイルドエリアにある巣穴それぞれにパイプをつなげて、願い星の力を吸い上げていたんですね。新しいブラックナイトにでもなるおつもりですか?」

「それはそれで興味深いが……"剣と盾"が黙っていないだろうな。まぁ、私はメリットのないことはしないさ」

「それに関しては私も同意見です。ですので、私もメリットのためにここへ来ました」

 そこまで言うと、イサラは地に伏せるイオルブの近くで屈み、低い声色で問いかける。

「――"銀の鍵"の在処を知っているか?」

「それを知ってどうするつもりだ」

「おっと、質問してるのはこっちだぜ」

 イサラが人差し指をイオルブの眉間に押し当てる。文字通り、指先一つでどうとでもできる状態だ。

 

「……期待に添えられず悪いが、私は知らんよ」

「私の力の正体にも気付いていたようでしたので、オカルトにも造詣が深いのかと思いましたが……」

「かつて集めた書物の中に宇宙の真理を綴った文献があった。読み流すだけでも頭が割れそうになる毒書だと、すぐに気付いて読むのをやめたがな。要はかじった程度の知識ということだ。アテが外れたな」

「ふぅむ……まぁ、それなら仕方ありませんねぇ」

 

 普段の声色に戻ったイサラが、すくっと立ち上がって振り返る。コートを翻し、出口へ向かって歩き出す。

 その途中で立ち止まり、ピッと指を立てる。

 

「あ、そうそう」

「……?」

「貴方が思う以上に、人間は面倒くさい生き物です。私としては、人間に近づくのなんかおススメしませんねぇ」

「……厚意として受け取っておこう」

 明滅する蛍光灯が作り出すイサラの伸びた影が、暗く、黒く、蠢いて見えた――

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 ~ユゴートの研究所 1階 HOT'SPOT《ホットスポット》~

「それで、どのような冒険だったのデスか?」

 無音の店内に、炭酸を注ぐ小気味良い音が響く。

 表の扉にはCLOSEDの下げ看板。深夜を回り、むしろ明け方に近い時間帯のバーで、ミクソンが差し出したグラスをリカードが受け取る。

「暴走したキョダイマックスイオルブによる破壊活動、ってところかな。オーベムたちを集め、人間たちに集団催眠をかけようとしていた」

「それをお二人が食い止めたわけデスね。故郷のガラルを救ってくださり、ありがとうございますデス」

 

 炭酸のはじけるハイボールを受け取り、リカードは「よせやい」と手を振るう。

「そんな英雄みたいなこたぁしてないよ。僕はただ、イサラの兄さんに巻き込まれただけさね」

 

 くすぐったそうに苦笑しながら、グラスを傾ける。よく冷えたハイボールが喉を下り、全身に染み渡る感覚を覚える。鼻を抜けるスモーキーな香りの後にくるアルコール特有のわずかな苦みがたまらない。

 くぅ、っと小さく唸るリカードをよそに、ミクソンが顎に手を当てて首をかしげる。

「ところで、イサラさんはどちらに? せっかくもう一本冷やしておいたデスが、一緒ではないのデスか?」

「寄り道はほどほどにしろって言ったんだが、言って聞くようなヤツじゃあないよな。世話焼いて損したぜ」

「突っ込む首が多いと大変デスね」

「どういう意味だいそりゃあ」

「誉め言葉デス」

「贋作だから誉め方間違えたって言い訳は通用しねーぞ」

「冗談が通じない方デスねぇ」

 そんな会話をしながら、リカードは思い出したように首元からお守りを取り出す。

「そういや、これサンキューな。おかげで無事にガラルを散歩できたぜ」

「それは何よりデス。アァ、返さなくていいデスよ」

 だろうな、と言って懐にしまう。

 そもそもリカードには"逃げ足"の特性がある。もし見張りのオーベムたちに絡まれても、逃げることは容易だった。それを知らないミクソンではないはずだが、なぜ渡されたのか疑問が残る。

「一夜限りのガラル旅行、楽しかったデスか?」

 そういうことか、と思わず笑ってしまう。

 冒険に出た先で、その旅を満喫するために。

 リカードの行く先がガラル地方になることも、イサラがどこにいるのかも知った上で、あえて黙って"清めのお札"を渡してきたのだ。

 粋な計らいと呼ぶには性格が悪いが、感情があるのかないのかわからないこの贋作ポットデスの企みは、決して悪いものではなかった。

 美しい夜の星々と、踏みしめた大地の感触と、駆け昇った空の高さを思い出しながら、リカードは言う。

「いややっぱふざけんなあの野郎。ちょっと説教してくらぁ」

 回転する椅子から飛び降り、店の出口へと向かって歩き始める。今どこにいるか知らないが、イサラに一言文句を言わないと気が済まない。

 が、本人の意思とは関係なく体は反対側へと歩いていく。

「リカードさん、お酒に弱いのに一気に飲み干すからデス。"千鳥足"が発動しちゃってるデスよ」

 そしてそのまま地面に這いつくばる。ビターン、といい音がした。

 やれやれと近づいたミクソンは、その様子を数秒眺めた後、何もせず立ち上がった。

「本当に、仲間思いのお節介さんデスねぇ」

 酔いからか、疲れからか、リカードは心地よさそうに寝息を立てていた。

 運ぶのも面倒なので、部屋の奥から毛布を持ってきてかぶせたミクソンは、そのままグラスを片付けて店の電気を落とした。

 こうして、ラボの仲間にもほとんど知られない物語が、幕を閉じるのであった。

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