NAGEYARI CHRONICLE
菌糸の支配者
集合時間に遅れるユゴートを呼びに向かうフリゲート。
その先に、覗いてはならない深淵があるとも知らずに――。
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~シンオウ地方 テンガン山 ユゴートの研究所~
「ユゴートの姿が見えませんね。そろそろバトルスポットに集合する時間なのですが」
フリゲートはバトルの準備のため、ユゴートを呼びに来ていた。
2階から地下2階までフロアのあるユゴートの研究所、通称ユゴラボは外観以上に複雑に入り組んでおり、隅々まで人探しをするとなると骨が折れる。
そのため普段であれば館内放送を使って対象を呼び出すのだが、ユゴートはこれに反応しないことが多々ある。
多くの場合は研究に没頭していた、放送が聞こえないほど寝入っていたなどの言い訳が帰ってくるが、今回もそのどちらかだろう。
ハリスがマイクに向かって音割れする勢いでユゴートの名を呼んだが、数分経っても現れないのだ。
「いるとしたら地下2階の研究室でしょうか。あまり近づくなと言われていますが、仕方ないですね」
ラボの地下2階はユゴートのプライベート空間と化しており、よほどのことがない限りは近づかないでほしいと釘を刺されている。
そもそもこの研究所自体が彼女が管理しているものであり(元はギンガ団から奪ったアジトだが)、彼女がどこで何をしていようと彼女の勝手だ。ここに住んでいるポケモンたちは彼女の世話になっているのと等しい。
そのためユゴートに「近づくな」と言われた場所には近づかない、暗黙のルールがこのラボにはあるのだ。
「とはいえ時間にルーズなのはいただけません。ここはひとつ、腹を割って話すつもりで臨みましょうか」
意を決して地下2階への階段を下りる。
集合時間は既に過ぎており、癇癪を起したハリスやピリカにクロヤリが巻き添えを食う姿が容易に想像できた。
まぁ無駄に頑丈なヒトなのである程度は大丈夫だろうが、と思いつつ暗い階段を鎧を鳴らして下りていく。
「相変わらず静まり返っていて不気味なフロアですね。さて、彼女の研究室はここでしたか」
自分が鳴らす鎧の揺れる音だけが、無機質な廊下に響いている。
薄暗いのが好みなユゴートの空間だからか、このフロアは照明がほとんどついていない。
ほんのりとだが、廊下の奥の方から冷気が伝わってくる。聞いた話ではテンガン山のさらに地下まで繋がる洞窟があるとのことだが、この分だと本当らしい。
ユゴートの私室、その扉をノックする。
コンコンッ。
「……反応は無し、ですか。ハリスのあの怒鳴り声で反応がないのですから、寝ているわけではなさそうですね」
どうやら研究室にはいないようだ。いったい何の研究をしているのか問うてみたこともあるが、やはりはぐらかされてしまった。
主人であるクロヤリは何か知っているようだが、ユゴートに口止めされているのか、あるいは本当に話したくないのか、顔を青くして話をそらされてしまう。その反応から察するに、どうせロクでもないことなのだろう。
「ここにいないとなるとどこでしょうか。隣の部屋は……例の部屋ですか」
立入禁止。その4文字が書かれた大きな扉が視界に入った。
なぜ立入禁止なのか、その理由も教えてもらったことは無い。ユゴートの研究内容にかかわることだとすれば、やはりロクでもないものがあるのだろう。
とはいえ今は大切な主人がバトルをするために準備している。ポケモンである自分たちが彼を裏切ることはできない。
彼の考えたメンバーでのバトルなら、それに従うべきだ。今はユゴートのルールより、主従としてのルールを重んじる。
だから彼女を探すため、扉に近づいた。
ノックをしようと、一歩踏み出した。
「それは看過できないなぁ、フリゲート。キミも深淵を覗くつもりかい?」
気だるげな抑揚のない声が、天井から降ってきた。
「……ッ!!」
思わず身構え、槍と盾を構えてしまう。
振り向いて上を見上げれば、薄闇に反射する眼鏡のレンズが見えた。
ユゴートが"天井に立っていた"のだ。宙づりになった外套がはだけ、隙間から彼女の本体であるパラセクト本来の脚が伸び、天井にしがみついている。ボタンを留めているためかろうじて脱げ切っていないが、下半身はほとんど露出しており、生気のない素肌が露となっている。
「……そろそろ外套の下に何か着るようにしたらどうですか?」
「どうにも窮屈でね、慣れないんだ。お目汚し失礼したね」
口元は笑っているが、レンズの奥の目が笑っていないことはわかる。
ユゴートはそのままドサリ、といった調子で床に降りてきた。というより落ちてきた。痛覚のないような仕草で平然と立ち上がる。
「それで、こんなところまで何の用だい?」
「バトルの準備が出来たので貴女を呼びに来ました。すでに集合時間は過ぎています。何をやっていたのですか?」
ふむ、とユゴートは考え事をするような仕草を見せる。
外套の隙間から覗く節だった鋏角をギチギチと鳴らしながら、人間の体の方の腕を組んでいる。
その間も、フリゲートは盾を握る手の力を緩めることは無かった。
目の前にいるパラセクトは仲間なのだ。自分の認めた主のポケモンなのだ。
だが、その仲間を前に背筋を冷たいものが走った。
天井から降りてきた声には明確な"危険信号"があり、気付けば首元に鋏角を突きつけられていたのだから。
ユゴートの得意とする技"カウンター"。彼女はこの技で、迂闊にテリトリーに近づいた者を仕留める。
普段の動きは緩慢でお世辞にも運動が得意そうではない彼女の見せる、殺意のこもった早業だ。
(もし、あと一歩でも扉に近づいていたら、私かユゴートのどちらかが再起不能となっていたことでしょう。あるいは、両方だったかもしれませんね)
もしユゴートが本当に攻撃してきた瞬間、自分もその錨槍を投擲していたことだろう。
そうならなくて本当に良かったと、心から安堵する。
「そういえばそんな約束をしていた気がするねぇ。いけないいけない、どうやらメンテナンスが必要なようだ。いや……いっそ新調した方がいいかな?」
ユゴートは鋏角で頭を搔きながらそう言った。どうやら記憶から抜けていたらしい。
不可思議な単語がいくつか発されたが、その内容については知っている。
元来パラセクトという種族は、虫に寄生した菌糸の方が主導権を握る本体と言われている。
ユゴートの本体はこの肉体にとりついた菌糸の方であり、それが自我を持って喋っているのだ。
そして彼女の使っている肉体は、彼女が研究により造り出した"ヒトの姿をした入れ物"に過ぎない。
ユゴートの正体は喋るパラセクト(菌糸)というだけで、厳密には擬人化したポケモンではないのだ。
「呼びに来てくれてありがとう。わざわざすまなかったね。今後は気を付けるようにするよ」
淡々とした調子で続けるユゴート。彼女は振り返ると、1階に続く階段の方へと歩き始めた。
「肉体労働は苦手だが、今回はお詫びの印としてちゃんとバトルするとしよう」
「苦手という割には、先ほどの早業はなかなかのものでした。貴女がそこまでして私を止めた理由、聞かせていただけませんか?」
ユゴートの足が止まる。
廊下の奥から吹く冷気が強まった気がした。
「私にはわかります。その行動が、私の身を守るための行動だったと。あの扉の先には、何があるんですか?」
「キミは彼にとって大切なポケモンだからねぇ。迂闊な行動で使い物にならなくなったら、彼が可哀そうだ」
失笑する。可哀そうなどという単語の意味すら、きっと彼女はわからず使っているのだ。
「あの扉に入るということは、つまりそういうことなのさ。きっと帰ってこれなくなる……肉体ではなく、精神の方がね」
「……見るだけで発狂するようなナニカがあるということですか。なぜそのようなものがここに」
「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」
「……?」
「かの有名なニーチェの言葉らしいよ。具体的な意味までは知らないが……覚えておくと良い」
ユゴートは再び歩き出す。スリッパを引きずるように歩くその外套の隙間から、膿のような、粘菌のようなものが滴っている。
「……アナタは一体、何者なんですか」
「さぁてね? 化物とでも答えておこうか。それとも……ユゴスよりの者、と答えるべきかな?」
その言葉の意味を尋ねる間もなく、ユゴートは階段を上がっていった。
きっとそれは、深入りするなという彼女の最後の警告。
覗いてはいけない深淵にまつわる言葉なのだろうと、フリゲートは胸の内に押し込めるのだった。
なお、この後2匹ともハリスとピリカに滅茶苦茶怒られたことは言うまでもない。